ありのままのすがた

拝むという字をちょっと捻って 御 我 無 と書いてみました。
我、俺、自分というものの考え方から一歩踏み込んでみました。
本当の自分があれば嘘の自分だってあろう。屁理屈並べたって仕方ないと思っています。
だから、全身全霊で手を合わすこと。意識せず手が合わさる。
そんな心意が拝むということだと思いました。
あとはそこにどんなエッセンスが加わるかでしょう?

諸法実相(しょほうじっそう)。すべての存在のありのままの真実のすがたであり、仏教では真
理をさす言葉のひとつであって、大乗仏教を一貫する根本思想であるが、その意義は一定して
いないといわれています。
先日、宗教評論家のひろさちや先生をおよびして講演会が行われました。
テ−マ”人間にとって宗教とは何か?”というタイトルを据えて解りやすく講演していただきました。
持論である「人間のものさしをやめて仏様のものさし」で見考えるといろんなことが解り、人生を
生きる上での指針となり大切なことであるといわれます。
ものさしの形や材質や長さ、重さ、尺度・・・いろんな角度から考えるものさしを我々はその都度
自分に都合よく使っています。図り方がずれたりするととんでもない結果が伴います。
先生曰く、諸法実相ということを一言でいいますと”味噌も糞も一緒だ”と云うことです。
綺麗や汚いとか甘いや不味いとか・・。健康な人が良くて病人が悪いと勝手なものさしでものごと
すべて決めているんです・・・・・。そんなものさしを捨てて健康な人は健康でいい、病気の人は
病気でいいし、味噌は味噌、糞は糞でいいんだということを明らめるという仏様のものさしで図る
といいんですねと。
結局、宗教は人間にとって”何でもいいものはいいんだとわかることなんだ”そして”わからない
ことがわかるということをわかることだ”といいます。

ありのままのすがたが素直に感じ取れればいいと思います。
いいこととかわからないということを悩み苦しみ、なにがいいのかなにがかわからないかとかを
わかろうとするから窮屈になります。
じゃあどうでもいいのかというかもしれませんが、そこのとこを図るものさしでみようとしたらどうで
しょうか。

人間、考えすぎるから不自由になると云われた恩師。
角のあるものさしを使っているから、見方によっていろんな見方量り方になります。
そんな角をとってまあるいものさしでみようとしたらどうでしょうか。 
輪ができ我がとれ和になるかもしれません。
それが仏様のものさしだと思います。