一本松が教えてくれている

海辺の髙台で親子してお経を挙げた。
一句一句に震災被災の精霊やいまだ不明の御霊への思いが募っていった。
そして被災された方々を思うと声が震えた。
わずか5分間のお経ではあったが、息子と一心に念じあげた。
ここ陸前高田市。彼岸法要帰郷途中に寄らせていただいた。
心情を鑑みて早朝4時50分に現地入り、6時過ぎに後にした。
被災から6カ月過ぎたとはいえ、壊れた車やボ-ト、ここに街があった
であろう形跡は舗装の道路から受け取れた。
5階建てのアパ-トは4階までの各階のガラスが割れ過通し状態。
海岸から川沿いに10キロだろうか入った木造の大きな民家は伽藍堂、
まるで能舞台であった。小学校近くの古寺の山門や本堂入口にはブル-
シ-トで覆われ、庫裡は柱のみで辛うじて立っていた等々。
そのなかでも海辺沿いに立っていた松(津波に耐えた一本松)が何かを
教えてくれているかのようだった。

       

生かされて生きるや今日のこの命
       天地の恩 かぎりなき恩
”私は誰の世話にもならず一生やってきた”と言い切る人がいる。
しかし、誰の世話にもならずにという思いは、自分の側にだけに立った
一方的な思いあがりである。毎日の食べ物、着る物、住む家、太陽の光
、空気、水など・・計り知れない大きなお陰がそこにある。

自然の摂理には到底、抵抗できない。
一本松はそう教えているかのようだ。しかし、なにもできないということ
ではない。そこからなにかを学ぶことが必要である。

おれがおれがの「が(我)」を捨てて、おかげおかげでの「げ」で暮らしたい。
そうすれば受け取り方も感じ方も変わるはず。
奪う心はさびしい。与える心はゆたかである。物でも心でも・・・。