どうぞお茶でも一杯いかがですか

禅の言葉に「喫茶去(きっさこ)」という言葉があります。
禅語のなかでもほっとさせられる言葉でです。
「どうぞお茶でも一杯!」くらいの意味でしょうか。
中国の唐時代の禅僧「趙州(ちょうしゅう)禅師」の話です。
 その趙州禅師のもとへ修行僧が教えを乞うにやってきた。
  趙:お前さんはかってここにきたこがおありかな
  僧:はい、以前にも参りました
  趙:”喫茶去”さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい
 またあるとき別の修行僧がやってきた。
  趙:かってここにきたことがおありかな
  僧:いいえ、一度も来たことはありません
  趙:さようか、ならばお茶でも一服おあがりなさい
 これを聞いていた寺の院主は「なぜ同じように喫茶去といわれたか」と尋ねると
 答えずに「院主さん」と呼んでから「喫茶去」と云われた。
三人の僧に対してただ「喫茶去」といって接したのは、趙州禅師の相対する
分別、取捨、過去、現在、あちら、こちらと分かつ一切の意識を断ち切った
悟りの境地であります。
私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ちや身分の高い人が来れば丁重に
お持て成し、嫌いな人や貧しい人にはいい加減な対応をしてしまいがちです。
分別を入れず、誰に対しても計らいなく、真心から接して行きたいものです。

こんなお寺の和尚さんもいます。
 人間の一生はお茶にはじまってお茶に終るようですね。
 オギャ~と生まれて産湯を使い、目も見えぬうちから飲まされたのが『産茶』、
 やがて元気に成長したと思うと手もつけらんような『ヤン茶』ということに
 なって小中高と進んで今じゃ新聞、テレビで毎日暗い非行と暴力の話ばかりで
 全くもう『無茶苦茶』。それでも年頃になると『番茶』も出花で愛でたく『茶』
 の代わりに”桜湯”飲んで結婚し、人もうらやむ『甘茶』の生活が続く・・・
 だが、しばらくして腰が落ち着くとあっちへ行って『ベ茶ク茶』こっちへいって
 『ぺ茶ク茶』。やれこっちに『来いっ茶』、そろそろ『いけっ茶』をやっている
 間に人生の味を『渋茶』と共に体中に沁み込ませることになります。
 気が付けば『シワク茶』。最後に『献茶湯』で和尚から、まず甘い糖湯、次いで
 香り高き『お茶』を恭しく供えられて引導が渡される・・・・

慌てない~慌てない! 一休み 一休み・・!
鬼は外。福は内。