馬鹿になる。

馬鹿の語源を調べてみました。
サンスクリット語(古代インドの文学語)で「無知、迷妄」などを意味する「moha」の
発音の音写(音を真似る事)が「募何」(ぼか)という言葉となった事を由来とする説
(サンスクリット語説)と中国の史記「鹿を指して馬という説があるようです。
後者の説が面白いので触れてみます。

昔、中国の奏の趙高という方が、二世皇帝の宮中に鹿を連れ、「珍しい馬がおります」
と献上した時に、皇帝は「馬ではないのか?」と聞き返されました。しかし、趙高は「これ
は馬でございます」と答えました。そして、趙高の家臣に「これはどう見えるか?馬か?
鹿か?」と尋ねたところ、趙高派の家臣たちは、「馬でございます」と答えましたが、趙高
に不満がある反趙高派の家臣たちは、「鹿でございます」と答えました。
反趙高派の家臣たちの発言は趙高の怒りを買い、その後に処刑されたそうです。
このことにより、「自分の持った権力をいいことに矛盾したことを押し通す意味として「馬鹿」
と言うようになった」という説です。

さて意味はさておき本題に入りましょう。
先月のお話に話材ととして登場戴いた北見市高臺寺東堂老師の著書「虚空に花を」から
引用させていただきます。
禅家に口伝として寺院に起居するすべての僧に心得るべき四ヶ条がある。
一に掃持(掃除ではない、身体を使って内外ともに掃持をする)、二つに坐禅、三つに勤行
(すべての読経・法事・葬式・法要など)、四つ目に馬鹿になる というのである。
この馬鹿になるが一番大事である。
馬鹿とは自我の取れたもののことを云う。何でも俺が俺がという気の有る人は利口であって
馬鹿ではない。お寺に住むエライ人や利口者は要らないというのだ。
馬鹿ばかりでよい。お寺は仏さまの集まりである。馬鹿同志を唯仏与仏、唯だ仏と仏の出逢い。

ここ函館は7月がお盆。ご先祖様(仏さま)との出逢いのときです。いい出会いいい巡り合いを!