掃けばちり
  払えばまたも塵(ちり)つもる
       庭の落ち葉も  己が心も 

ある処に億万長者だったが息子が居らず、また親孝行をしたいが親が
いない人がいました。
その億万長者は長い間、広告したりあらゆる手段を使って、親孝行をしたい
という養子の募集をしました。がしかし、億万長者の養子という魅力に集まって
きた若者たちは皆、財産目的であったために、試験に合格したものは一人も
いませんでした。
ある時、一人の青年が現れて「是非、親孝行をさせてください」と頼み込みました。
「それではと」長者は、試験を始めました。
その試験、本人を井戸端へ連れて行き、二つともに底のない釣瓶をもって、
夕暮れから翌朝の一番鶏の鳴くまで四斗樽に水をいっぱい汲むという課題でした。
以前に来た若者たちは皆、異口同音に”そんな馬鹿なことできるもんか”といって
、やってみようともせずリタイア。ところが、その青年、一晩中わき目もふらず
汲みました。
一休みもせず、四斗樽に水が溜まったかどうかということに執着なく、黙々と汲んで
汲んで汲み抜きました。 遂に一夜を明かして、一番鶏が鳴いたことも 夜が明けた
ことも気づかず只一心に汲み抜きました。 
一番鶏の鳴くのが待ちきれずに長者が見に来ました。青年はまだ汲み続けていました。
無我の境地になってやっているので長者にも気づきません。背中を叩かれ初めて水を
汲んでいることに気づき、樽の中をみるました。
するとどうです、四斗樽は満水していて水が地一面滴っていました。
その青年、「これでやっと親孝行ができた」と大喜び。
それにもまして喜んだのは長者でした。
立派な跡継ぎができ、二人は幸せに仲良く暮らしたというお話です。

この話、「底なし釣瓶で水を汲む」という中国の話です。
実に無駄と思われる骨折りに意味があります。
無益なことを始めからできるはずがないことをやってのけた孝行息子。
この青年こそと見込んだ長者。考えさせられるお話です。
一滴の水といえども「ちりも積もれば山となる」のたとえのように、一心を込めて
やれば「精神一到何事かならざらん」で成し遂げることができるとの教えでしょう。

庭の落ち葉や己がこころに当たっても無駄なんですね。この無心の心から打算
抜きの精進努力が満水を生むんですね。
本当の意味での「底なし」無限のものが得られるのではないでしょか。
今日の世の中は、あまりにも打算的な面が多く「無用の用」というものを認めませんね。
それでは、ただ掃いたから、拭いたからの世界に陥ってしまいます。
それでは本当のことは出来ないのではないでしょうか。 ご用心!

無駄骨折の徳。