宮城まり子女史の死

日頃の布教法話にこんなお話を使わせていただいた。
肢体不自由な子どもたちの施設「ねむの木学園」
宮城まり子女史は、私財をなげうち、1968年に設立しました。
「売名行為」だとか「何もしてやれないのでは」とか世間の人たちから非難を受けました。
しかし、女史は愚痴をこぼすことなく、決して諦めませんでした。
障害をもったそれぞれの子たちの隠れた才能を伸ばすため、絵や音楽など多彩な
教育に取り組みました。

ある日の学級でのこと。
先生が春も間近な外の風景を見て
「雪が解けたら何になる~?」とクラスの児童に問い尋ねました。
しばしクラスのみんなはガヤガヤと色んなことを言いだしました。
一人は「水になる~~」
もう一人は「地面からお花や雑草が芽をだす~~}
さらに一人は「川に流れる~~」
到頭クラスは収拾つかない状況になってしまいました。

とそこにちいさな手を挙げ先生を呼ぶ声が微かに聞こえました。
「○○さん!分かりましたか~」と先生。
○○さん、身体全体で声を振り絞って
「雪が解けたら・・・ 雪が解けたら・・・      春になる!

宮城まり子女史はこのやり取りを先生から聴いて
「何が健常者なのか、どこが障害者なのか」とより一層の思いを新たにしたそうです。
そこには12歳の夏、母を結核で失ったことが根底にあるそうです。
 白い夕顔が咲く庭で、弟が地面に棒で母の顔を描きながら、身体を震わせて
 泣いている。その時に「泣いている人にやさしくしてあげられる人になりたい」

先月、93歳の生涯を閉じた。
捨て身の愛情を注いだ生涯だったと北海道新聞卓上四季は綴っていた。