モニタ−には注げないけれど・・・

新年あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い申し上げます。                            さて、
禅宗の行持をする上で、音によって合図をしたり時を知らせたりする木版という法具に
書かれている墨蹟があります。
 生死事大 無常迅速(生死は事大にして無常迅速なれば)
 各宜覚醒 慎勿放逸(おのおの宜しく覚醒して、慎んで放逸なること勿れ)
                                  <六祖壇経>
また一歳を重ねました。限りある命だからこそ”ああこんな生き方してないで今のうちに善い事の
一つでもしなければ・・”と、焦りにも似た気持ちになるのは私だけでしょうか?。
「一年の計は元旦にあり」と心新たにした去年の元旦は何処にか去らんで、「光陰矢のごとし」と
はこのことを云うのでしょう。

昨年末からパソコン上に展開する”スカイプ”というテレビ電話をときあるたびに利用しています。
全世界への無料の通話ができるからだとか操作が簡単だからとかいう魅力に取り付かれているのも
確かです。
しかし、電話している人の顔が見えているというのが今までにはないことで実家の両親らが身近に
感じ、まるで隣の家にいるかのような親近感を覚えました。
父は言いました。”まさか自分が生きている間に電話がテレビになるとは・・長生きしてて良かった”と。
一昨日も両親と会話を交わし、約30分の時を共有しました。
時間のたつうちに欲がでてきました。
それは、画面に映る両親だけでは物足りなくなっていたのです。
ある日、父と長電話の感があるなと思い好きなワインを片手にパソコンのモニタ-画面に向かって話し
かけました。
会話は進むし、ワインも進む。父は休肝日だったようでお茶を片手に対面です。
”そうだ自分だけ飲んでいては申し訳ない”と瞬間思いました。
”できるものなら、お茶でも注いであげたいな””でもモニタ−にお茶かけられないし・・”と。
大した話ではなかったのですが
”そのうちきっと注げる世も来るだろう”と勝手な思い込みをして約40分にも話が続いたのでした。
そして残ったのは、空しさとともに眼球疲労でした。(ほどほどにしなくてはならない)

老いも若きも刹那刹那の積み重ねで年齢となります。
お互い同士、この身このままの姿=悉有(しつう)が尊い生命であると認め合う、そのように人々が
自他を区別なく生きていけるような世の中でありたいものです。
2007年猪突猛進とまでは気負わなくてもいいのですが、健康でこころ豊かに暮らして行きたいですね。