幸せの秤

ようやくここ函館は桜の開花宣言が昨日だされた。
世の中はゴ−ルデンウイ−クの真っ只中。我が家は、長男が永平寺修行中で次男は実家へ
お手伝い。長女は連日のテニス試合と岩手へ遠征・・・。妻は仕事方々家事に趣味にと忙しい。

昨日、気まぐれ日記にも登場していただいた北教大生の頃からお付き合いしていた現M市役所
勤務のO氏ご夫妻が訪ねてくださった。家族が一人増え4人でのお越しである。
3ヶ月の赤ちゃんを抱かせていただいた。犬のク−ルより軽かった。長男のやんちゃを小言で
見ているO氏と奥様。あの頃を思い出させてくれた。
大変ななかにも幸せが行き交っていた。

よく生きている証が得られれば、それが幸せだという人がいる。確かにシャニムになにかにうち
こむのはそれでいい。立派に見えるかもしれない。しかし「私から仕事をとったらなにも残りません」
などと力瘤をいれると、人生窮屈になってしまうのではないだろうか。
なにかをとったらなくなってしまう人間など居るはずもないと思いますが・・・。
道元禅師様は坐禅堂を建てるのに際して
"勧募を始めるが、すぐに建たなくてもいい。坐禅堂を建てることを思い立ったのだから、そのご縁
で柱の一本でも建てられれば結構。あとは誰かが建ててくれるだろう”と。
凡人は、どうしても是が非でも自分の手でなにごとかをしたいと執着する。
坐禅も目的のための手段だと思っては大間違いである。
なかなか最近、ただ坐ることは難しくなってきているようである。

わが師、余語翠巌老師(よごすいがんろうし)曰く
「なにかをなさなければ、なにかを手に入れなければ、実現されない幸せなどは幻のようなものだ。
仕事に失敗しょうが、恋に破れようが、ここに過不足なき存在として天地の命を生きていることが
幸せなのだ。人間の寸法ではなく、天地法界の寸法で生きていくとき、幸せは常にともにある」と。
さらに一句
「人間考えすぎるから不自由になる」と。