お経の重み

20年来のお付き合いしていた東京在住のおばちゃんの納骨の法要があった。
十数人の読経のなか、厳粛に厳かに進んだと思った。
なかなか信仰がまだまだ生きているんだなと感じた瞬間でもあった。
おばあちゃんの生前のお姿が本堂いっぱいに溢れているかのようだった・・・。
娘さん二人ともお盆以来の再開で懐かしさでいっぱいになった。
とにかく強烈な印象のある家族だった。
我が家のような昔のお寺がそこにあった。

無事、納骨も済み点心(精進落とし膳)に呼ばれ故人の面影を偲び慕え花が咲いた。
「でもね〜なんか今日の本堂でのお経、昔と比べると重みが無くなったよね〜」
と長女の方に云われた。
ドキッとした。
酔いも吹っ切れた。
確かに年齢も全体に若返ったし、パワ−も感じられる。
決まりどおりことが進む。たどたどしさのなかにも一生懸命な姿がそこにはある。
しかし、念じている施主側にとってはそう感じたのはなにか?

こころの問題、気持の入れようなのであろうか。手抜きとは言いたくないが、惰性で決まりに
縛られ雁字搦めになっているお経なのかもしれない。
ぎこちない声、惰性的な音・・・・。
若いとか年寄りだとかそんな問題ではないのであろう。
若さには若さの読経、年寄りには年を重ねた読経・・・。
一人のお経はそれなにに。十数人のお経はありがたいような・・・・。

一人も十数人も同じならと思うのも当然であろう。
修行時代にもう一度戻って、こころに沁みるお経を伝えなければ施主も先祖も納得しない。
いいお叱りを受けた。
感動させるお経を読みたい。読まなければならない。いま口だけの成仏が現存している。
肝に銘じて精進努力していこう!。