面壁九年

達磨大師は少林寺で9年間坐禅をしました。
多くの求道者が達磨大師を訪ねますが、声を掛けてもまったく応じなかった。
9年が過ぎようとしたある日、神光という名の求道者がやってきた。
どうしても道を極めたい、入門したいという思いから護身用の刀で自らの左肘から切り落とし
達磨大師の目の前に突き出した。
これには達磨大師も観念した。

 達磨:「おまえは何者だ」
 神光:「神光と申します。お聞きしますが、私は世の中の様々なことについて不安でたまりません。
     どうぞ私のために説法していただき、安心させてください」
 達磨:「よし安心させてあげよう。その不安にさせている心をここに出しなさい」
神光は長年不安に思っていた心をだそうとしたのだが、何が不安にさせているのか解らなくなった。
 神光:「不安にさせている心を探しましたが、見つかりません」
 達磨:「神光!もうすでに安心しているではないか」

その言葉に神光は自らが不安な心を作り出しているが、その根底には不安も求めるべき安心さえも
何もないことに心底気づいてのだった。
大師は慧可(えか)という僧名を与えて入門を許可した。

達磨大師の有名な逸話でした。
私たちはなにかにつけ、自分を見失いがちでその結論を他に求める癖があるようです。
自らが変わらなければ、他は変わりません。
他が変わったとしても自らが変わっていなければ、それすら分からない己がそこにあります。
他を攻撃するかのような”説明責任”だの”任命責任”だの耳にしました。
坐禅でもして考えてみたら如何でしょうか。

10月5日は達磨大師のご命日です。
その風光を感じてください。