だだ・・・・・・。

只管打坐(しかんたざ)。ただひたすらに坐るのが我が曹洞宗の坐禅の極意である。
「無所得・無所悟・不可得」の坐禅です。世間では「目的のない行為」は存在しないというのが通説だが、
「只管打坐」とは、さとりも求めない、ただ坐禅するだけで他に何も求めない、坐禅の外に目標を持たない、
只坐禅一途ということになる。『坐禅のために坐禅する』 とか、『坐禅が坐禅をする』と言われる。
只管(しかん)とは、「ひたすら」という意味ではなく「無心無我」です。余念をまじえない「それのみ」
「もうそれしかない」ということである。

昨年末に「おくりびと」という映画を観た。函館出身の作家故木下順二氏の「湯灌師」と重なったが、
本の中の湯灌師と映像に映る若き納棺師にいろんな面での共感を覚えた。
仕事に対して友人は「もっとまともな仕事しろよ」と罵声を浴びせ、奥様は「汚らわしい」と逃げていく。
死体と生身の体。葛藤する納棺師。
鮭の川上りに、火葬場の職員を演じる風呂屋のボイラ-夫が云う。
なんで苦労して川上りするんだろうとの若き納棺師の問いに「あれは、故郷に帰るために一生懸命
がんばっているんだな」・・「死とは門だ。だから、いってらっしゃい!また会おう」って言ってやるんだと。
なかなかそれが言えない。
その結果、父親を看取ることになり、奥様は仕事としての納棺師の夫を認め愛することができた。
ただ飲む会だからと云われ、異業種の集まりに参加させていただいたのも昨年の忘年会でのことだった。
ただほど怖いものはない、だだほど高くつくものはないなんて皮肉っていうが、そんなことはない。
ただだから、真剣になるのである。どうでもいいただとは違う。

観音経の一節に「応無所住 而生其心(おうむしょじゅう にしょうごしん)」という箇所がある。
「応に住する所無うして其の心を生ず」、私どもには毎日いろいろな心が生じるが、それがちゃんと
出所がある。住する所がある。「応無所住」、どこにも住しない、心が空っぽであって、その時に面白い
と言うて笑い、悲しいと言うて泣いたら、それがそのまま仏心でなければならない。

「だだ」の人になろう。
さあ!2009年(平成21年)のはじまりです。
いろんな「ただ」を頂戴しよう。