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歴代当主・一門衆
里見義實さとみよしざね(1416〜1488)
安房里見家初代。里見家基の長男。軍記などによると、結城合戦(1440年)に結城方として参戦、籠城するが家基の教示により脱出。安房に身を隠し、その後安房の内乱に乗じて安房を平定するというが史実は不明。長享二(1488)年4月7日病没。杖珠院殿建實興公居士。

里見成義さとみしげよし(1448〜1505)
里見家第二代。里見義実の長男。「成」の字は古河公方足利成氏からの一字拝領といわれる。軍記などによれば、南上総に版図を拡大したという。軍記がいう里見家十代のうち、実在が最も疑問視されている。永正二(1505年)4月15日病没。慰月院殿大幢勝公居士。

里見義通さとみよしみち(1480〜1518)
里見家第三代。里見成義の長男。安房の国主としての地位を確立し、鶴谷八幡宮の修築を行って権威を示した。小弓公方足利義明を奉戴し始めたのも義通の頃と思われる。軍記によると、死に際して「嫡子・竹若丸(後の義豊)が元服するまでは弟・實堯に家督を預ける」と言い残し、天文の内訌の火種を作ったという。ちなみに、義通以降の当主はすべて、文献によって、その存在が裏付けられている。

里見實堯さとみさねたか(1483〜1533)
里見家第四代。里見成義の次男。義通の死後、里見家の事実上の当主として政治を行った。足利義明に属し、その命により鎌倉を攻撃して北条軍を破る。その際に鶴岡八幡宮の社殿が全焼するが、出火の原因ははっきりしない。
1533年7月、甥の里見義豊に居城・稲村城を急襲されて自害。

里見義豊さとみよしとよ(1513〜1534)
里見家第五代。里見義通の長男。實堯が鎌倉を攻めた頃には既に正式に里見家当主であったとする説が有力。實堯を後見人として政治を行ったのであろう。
實堯と政策面で対立する所があったのだろうか、1533年7月に實堯を稲村城に急襲して自害に追い込む。義豊は上総の武田信保の協力を得て、内紛で混乱する安房国内の秩序回復に努める。
しかし、安房の豪族達の大部分が、北条氏綱と組んだ實堯の嫡男・義堯に付き、翌1534年、滝田・犬掛の戦いで義堯軍に敗北。稲村城に立て篭もるが、圧倒的な義堯軍の前に防戦しきれず自害した。

里見義堯さとみよしたか(1506〜1574)
里見家第六代。里見實堯の長男。父・實堯の横死を知ると、居城の金谷城(百首城という説も)に立て篭もり、相模の北条氏綱に援護を要請した。彼が氏綱の協力を望んだ背景には、小弓公方VS後北条氏の対決の構図がある。すなわち、義通以来の小弓公方陣営である義豊に対抗するためには、反勢力である氏綱の協力が不可欠だったのである。
小弓公方陣営である安房を勢力圏に組み入れたい氏綱にとって、義堯の要請はこの上なく好都合な物であった。後ろ盾の欲しい義堯と小弓公方の勢力圏を突き崩したい氏綱、両者の利害関係が見事に一致し、ここに義堯−氏綱の同盟が成立したのである。(以下執筆中)

里見義弘さとみよしひろ(1529〜1578)
里見家第七代。里見義堯の長男。

里見義頼さとみよしより(1542〜1587)
里見家第八代。里見義堯の三男。

里見義康さとみよしやす(1573〜1604)
里見家第九代。里見義頼の長男。富浦の岡本城で里見家を相続したときは、15歳だったといわれる。それから17年たったその間には、いろいろな出来事があり、里見家は大きく変わる。天下の情勢も一変する。戦国大名の時代でなくなり、近代大名という名の下の新しい体制へと変わらなければならなかった。秀吉や家康配下の一小大名に過ぎなかった。命令とあらば重い軍役負担に耐えながら、九州でも朝鮮でも出陣を余儀なくされる。
その苦労がもとになり、館山城内で死亡、御年31歳であった。墓石は城山の麓、慈恩院にあっていつも館山城を目の前に望んでいる。

里見忠義さとみただよし(1593〜1622)
里見家第十代。里見義康の長男(梅鶴丸)。10歳にして里見家を相続。館山城内で生まれ、家臣に可愛がられ不自由なく育てられた。慶長11年11月15日に梅鶴丸は二代将軍秀忠の面前で元服の式を挙げる。そして秀忠の一字を賜って忠義と名乗り、従四位下安房守に叙任された。
名実ともに、十代里見忠義の誕生であった。
忠義18歳にして、小田原城主大久保忠隣の孫娘で徳川家康の曾孫にあたる15歳の姫が室(奥方)に嫁いできた。結婚の儀は、内外から祝福され盛大に行われた。がしかし、この婚姻が3年後に訪れた里見家の滅亡の原因になっていった。
智恩寺に寺領が交付さて1年後、将軍に重陽の賀儀(菊の節句祝い)を述べる為、江戸にむかう。突然、将軍から伯耆国(倉吉市)への国替えと奥方の大久保家の陰謀による失脚の責任を追及され、雪深い山陰へ旅立つ。時に忠義21歳のことである。
安房の国を偲び、領民に思いを馳せ、望郷やるせない悶々のうちに9年後、山深い庵の中で忠義29歳のいのちを閉じてしまったのである。

里見家
新田氏の一族で室町中期から南房総に勢力を拡大した大名。
戦国時代は、北条家と長年に渡って抗争を繰り広げたが、最終的には敗北を喫して版図を減じた。のちに勢力回復するものの、小田原攻め遅参をとがめられ安堵されたのは安房一国のみ・・・。
1614年に嗣子がないためそのまま断絶となった。

房総里見氏の歴史が始まったのは、今から数えて約560年前(嘉吉元年4月)のことだった。第一代目となった里見義實が、結城の合戦(茨城県)に敗れ、命からがら三浦半島から船に乗り、家来二人と流れ着いたのが白浜の野島崎だった。
当時、安房国は四人の豪族(安西・神余・丸・東条)が争っていた戦国の世だった。
ふるさとの武将神余氏や山下氏が歴史に登場したのもこの時代。互いに譲らず強い勢力を持ち、戦をいていた。
ところが、もともと智将として優れていた義實はその争いの中に割って入り、苦労もせず安房一国を手中に収めてしまった。
やがて白浜城を築き、房総里見氏第一代となった。

その後、里見氏は十代も続き、その歴史は百七十年、その間には今の千葉県はおろか茨城・東京・埼玉・神奈川方面まで勢力を伸ばしたこともあった。
世に言う戦国の武将「房総里見氏」時代をつくってきた。

ともあれ世の中は戦国時代だった。すんなりと十代もつづいたわけではなかった。
系図の中での争い(叔父、甥殺しや従兄弟殺し)があったり、宿敵北条氏とはげしい戦を国府台で二回もやり、大敗した。
家臣に背かれて、勢力をそがれたこともあったがなお、何とか勢いを持ち直していつかは念願の関東副将軍になろうと武田信玄と組んだり、上杉謙信と同盟を結ぶなどしながら北方進出を年来の悲願としていた。

やがて、九代義康の時代になり、天下は大きく変わってくる。
一人ひとりの武将たちが争っている間をぬって天下統一をしたのが豊臣秀吉である。強大な権力者となった秀吉に、九代里見義康はたちまち組み込まれてしまい、安房一国だけを与えらた一地方大名になってしまった。

父の八代義頼と住んでいた富浦の岡本城が手狭になり、安房一国を治めるのに適当な城でないとの理由で不本意ながら南方の支城である館山城を修築して本城を移した。  館山城主となった九代義康は,秀吉の陣営に組しながら、実際には関東を与えられた徳川家康に従って行動していった。
ほとんど館山城にいる隙のないほど多忙だったようである。

慶長5年、関が原の合戦があった。 天下はここでまた大きく変わり、豊臣氏から徳川氏の時代への移ってきた。 九代里見義康は、この合戦には直接参加したかったが徳川方に味方して敵を宇都宮あたりで防ぎ止めたりした恩賞として鹿島領三万石を 安房国九万二千石とあわせて、十二万二千石の大名に出世することなった。
館山城も段々と整備され城下は賑わった。

以下、歴代当主紹介の里見家第十代里見忠義の欄へ移る。

                ・・・・かなまりの秘宝(その二) 小宮義夫氏借掲

里見関連の年表

1416年
 10月 上杉禅秀の乱起こる。里見氏、鎌倉公方足利持氏を警固。
1417年
 1月 上杉禅秀(氏憲)・足利満隆ら鎌倉雪ノ下で自殺する。
1418年
 4月 上総本一揆蜂起する。5月 一色・鹿島・姻田氏らの追討軍、一揆の本拠地・上総平蔵
     城を攻落。
1419年
 1月 上総本一揆再び蜂起する。5月 本一揆の大将榛谷重氏、降参。鎌倉由比浜で誅される 。
 8月 関東管領上杉憲実。
1437年
 6月 鎌倉公方足利持氏、関東管領上杉憲実と不和となる。
1438年
 6月 足利持氏、嫡子賢王丸の元服で将軍の名の一字拝領を無視して、「義久」と名付ける。持 
    氏、幕府及び上杉憲実と対立。
 8月 永享の乱起こる。
1437年
 2月 足利持氏、鎌倉永安寺で自害(四二歳)。嫡子義久、報国寺で自害(一〇歳)。里見刑部少 
    輔家基、持氏に従って討死する。
1440年
 3月 結城合戦起こる。里見修理亮、下総結城城に籠城する。
1441年
 4月 結城城陥落、結城氏朝ら敗死。このあと里見修理亮の首、上洛する。
 4月 将軍足利義教、赤松満祐邸で殺される(嘉吉の乱)。
1447年
 7月 関東管領上杉憲忠就任(あるいは翌年11月とも)。
 8月 持氏の遺児昆利万寿王丸、鎌倉へ帰還する。
1449年
 4月 将軍足利義政。6月 足利万寿王丸、元服して将軍義成(義政の初名)の一字を得て「成氏」
    と名乗る。鎌倉公方足利成氏。7月改元。
 8月 里見義実・緕城成朝ら成氏に仕える。
1450年
 4月 江ノ島合戦。
1454年
 12月 足利成氏の近習結城成朝・武田信長・里見義実・印東式部少輔ら三百騎、鎌倉西御門館 
     に関東管領上杉憲忠を謀殺する(享徳の乱始まる)。
1455年
 1月 上杉方と成氏方、武蔵・下総各地で戦う。
 4月 幕府、成氏討伐のため駿河守護今川範忠軍を派遺する。
 6月 今川軍、鎌倉へ乱入。足利成氏、下総古河に拠る(古河公方)。7月改元。
 7月 京都に里見氏らの四首到着し、将軍の首実検あり。
 8月 古河方の馬加康胤・原胤房、上杉方の千葉胤直・胤宣(宣胤)及び賢胤(胤賢)を下総千田
    庄内多古・嶋両城に攻め滅ぼす。
 12月 成氏、武田・里見・簗田・一色らの諸氏に、上杉方の武蔵埼西城を攻めさせる。
1456年
 1月 古河公方足利成氏、南・簗田氏の軍勢をもって千葉胤直の残党実胤・自胤らの拠る下総市
    河城を攻め、実胤らを武蔵へ追う(市河合戦)。
    この年、成氏の近臣・武田信長、上総へ打ち入り、長南・真里谷城を取り立て、同国を押領 
    する。
1457年
 4月 太田資長(道灌)、江戸築城。9月改元。
 12月 将軍義政、弟足利政知を関東へ派遺する。
1458年
 6-8月 足利政知、伊豆堀越に居館を構える(堀越公方)。
1466年
 2月 改元。上杉憲実没する(五七歳)。
 6月 関東管領上杉顕定。
1467年
 1月 応仁の乱起こる。3月改元。
1471年
 5月 上杉顕定・政真・太田道真・長尾景信ら、古河城を攻める。
 6月 古河城陥落。足利成氏、脱出して下総の千葉氏を頼る。
1472年
 2月 足利成氏、古河城を回復する。
1473年
 3月 山名持豊(宗全)没する(七〇歳)。
 5月 細川勝元没(四四歳)。
 6月 山内上杉家の家宰長尾景信没(六〇歳)。
 11月 扇谷上杉政真、武蔵五十子で討死する(二二歳)。
1477年
 11月 応仁の乱終わる。
 12月 成氏と上杉顕定らの和睦成立する。
1478年
 12月 扇谷上杉氏の家宰太田道灌、下総境根原で千葉孝胤・原・木内らと戦い、これを敗る(境
      根原合戦)。
1479年
 1月 道灌の弟太田資忠・千葉自胤の軍勢、千葉孝胤・臼井俊胤らの拠る下総臼井城を攻める。
 7月 太田軍、古河方の上総長南・真里谷城の武田氏並びに下総飯沼城の海上氏を攻める。臼 
    井城陥落。
    太田資忠以下五三人討死。
1482年
 11月 古河公方成氏、将軍義政と和睦する。
1491年
 4月 堀越公方足利政知没する(五七歳)。その子茶々丸継ぐ。
1493年
 この年、興国寺城主伊勢宗瑞(北条早雲)、伊豆の堀越公方茶々丸を攻める。
 足利義明(幼名愛松王丸、空然)、鎌倉の鶴岡八幡宮若宮別当「雪下殿」(社家様)となる。
1494年
 9月 相模三浦郡の新井城主三浦時高、養子義同に攻められて滅亡する。
1495年
 9月 伊勢宗瑞(北条早雲)相模小田原城を奪う。
1496年
 この年、伊勢宗瑞、足利茶々丸を甲斐へ追い、伊豆一国を平定。
1497年
 9月 古河公方足利成氏没する(64歳)。古河公方足利政氏。
1503年
 この頃、足利義明、得度して「空然」と称する。
1507年 
 この年、里見義堯、生まれる(臼我百日記)。
1508年 
 9月 里見義通、安房の鶴谷八幡宮を造営する。
1509年 
 10月 連歌師柴屋軒宗長、下総浜村の本行寺に旅宿し、千葉妙見祭礼の早馬.猿楽を見物。
    小弓城主原胤隆に招かれて連歌の会を催す。
    この頃、上総の真里谷武田氏、畔蒜庄を押領。
1510年
 足利義明、還俗。
1512年
 8月 伊勢宗瑞、三浦義同(道寸)の相模岡崎城を攻略する。
1514年
 6月 大将里見義通及び次将同弟実堯、安房北郡へ打ち入り、妙本寺に陣所を構える。
 11月 里見義通、安房那古寺の梵鐘を再造する。
1515年
 3月 里見氏、妙本寺を要害に取立て、実堯が眼代(守護代)として同地支配にあたる。
1516年
 7月 伊勢宗瑞、三浦義同・義意の新井城を攻落、相模を平定する。三浦氏滅亡。
    三浦水軍の三崎十人衆、宗瑞の支配下に編入される。
 8月 上総真名城主三上但馬守の手勢、千葉城を襲って各所に火を放つ。
    弥富原氏・東氏・上田衆ら討死(三上の乱)。
 11月 宗瑞、上総藻原の妙光寺(藻原寺)へ制札を出す。
1517年
 この頃、真里谷武田氏・原武・三上氏・高城氏ら、両総境で抗争を繰り広げる。
 10月 三上城(真名城)・小弓城陥落。真里谷武田氏、足利義明を招請する(快元僧都記)。
1518年
 4月 江戸城扇谷上杉朝良(法号建芳)没する。
1519年
 4月 伊勢宗瑞、上総二宮庄内の年貫千貫文の所領を子菊寿丸(北条良綱・幻庵)に与える。
 6月 西上総佐貫郷大乱。
 7月 伊勢(北条)氏綱、上総藻原の妙光寺へ制札を出す。
 8月 古河公方足利高基、結城・羽生・菅谷らを率いて真里谷武田氏の拠点、上総椎津要害を
    攻める。
  伊勢宗瑞(北条早雲)、伊豆韮山城で没する(八八歳)。
1520年
 6月 里見上野入道(義通)、敵城近辺の田井・横山・小沢要害・根小屋の諸城を攻める。
    足利義明、道号「遣哲」を名乗る。
  この頃、古河公方高基の弟足利義明、上総市原庄八幡郷から下総小弓城へ移り、御所を構え
  る(小弓  公方足利義<明成立)
1521年
 3月 古河方の高城氏家臣畔蒜(安蒜)・田島・鈴木ら、西下総名都狩(借)で討死。
 8月 小弓軍、高城氏の拠点小金方面を攻め、双方に討死多数を出す。8月改元。
    永正末〜大永二年頃(1521〜1522)、小弓と古河の抗争、両総に広がる。
1524年
 1月 北条氏綱、扇谷上杉朝興の江戸城・蕨城・毛呂城を攻略。朝興、河越城へ逃れる。江戸城代・
    遠山直景。
    氏網、武蔵品川の妙国寺・本光寺へ制札を与える。
 2月 氏綱、岩付城を攻略。扇谷上杉朝興、河越城を退く。
 6月 朝興、河越城を再興し、
 7月 岩付城を復帰する。朝興、武蔵晶川の妙国寺・本光寺に禁制を出す。
1525年
 2月 北条氏綱、岩付城を再攻略する。
    上総の真里谷武田信保(入道恕鑑)及び安房の里見義豊ら、氏綱と断交する。
1526年(大永6年)
 5月 正木大勝亮(通綱)、水軍をもって武蔵品川・今津(今戸)・石浜方面へ侵攻し、妙国寺・総泉寺
    へ禁制を出す。
 6月 扇谷朝興 蕨城奪還。
 8月 里見義豊、白浜城主里見民部少輔に岡本へ船を終結させるように命じる。
 12月 里見義豊、土気城の酒井左衛門佐定治らを率いて鎌倉へ渡海し、鶴岡の宝蔵を破却する。
    鶴岡八幡宮焼失。
1531年
 7月 足利政氏没する(六六歳)。
 9月 関東管領上杉憲政。
1533年
 7月 里見義豊、房州正木大膳大夫並びに叔父里見実菱を稲村城へ招き殺害する(里見氏の内 
    訌起こる)。
    実堯の子義奏、上総百首城に立て籠って北条氏に支援を要請する。
 8月 義豊、実堯・大膳大夫らの地盤であった妙本寺方面へ軍勢を進め、同寺に禁制を出す。
    同月、里見義堯・正木時茂・同時忠ら、北条の援軍を得て海陸から妙本寺要害を攻める。
    時茂、この妙本寺の合戦で討死した上野筑後守の「名代井一跡」を、その子上野弥次郎に         与える。
 9月 義豊敗れて「房州悉没落」し、上総の真里谷武田信保(恕鑑)を頼る。
 10月 里見義堯「房州守護」。
  この年、正木時茂、義富派の天津城:真里谷武田朝信を落とし居城とする。
  真里谷武田朝信、大多喜城へ移る。
1534年
 4月 里見義豊、真里谷武田氏の援助を受けて安房へ攻め入る。
    義堯軍と義豊軍、安房犬掛・滝田、稲村で激突し、義豊ら数百人討死する。
 5月 小弓公方足利義明、上総衆(真里谷武田氏)退治のため出陣。
 7月 親義豊派の真里谷武田信保入道恕鑑、没する。
    嫡子の真里谷信応が継ぎ、真里谷城主となるが、真里谷信隆が椎津城で対抗する。
 11月 小弓公方義明、真里谷信隆の拠る上総椎津城を攻め「敵百余人」を討取る。
    真里谷信隆、峰上・百首(富津)城と天神台城(木更津)に移り、北条の支援下、真里谷信応
    に対抗。
1535年
 10月 古河公方足利高基没する(五一歳)。古河公方足利晴氏。
1536年
 7月 原胤隆、下総北相馬の府川(布川)で没する。
1537年
 5月 上総錯乱。真里谷武田氏の内紛起こる。
    真里谷信隆派の一族及び北条氏の援軍・金石斎一大藤永栄・信基)人衆、新地の天神台城
    に立て籠もる。
    同月、小弓公方義明、真里谷信応を支援して信隆の峯上城を攻める。
    里見義堯、北条氏綱と手切れして、小弓義明に応じる。
    義明、真里谷武田氏の内紛収拾し、義堯の取成及び峯上証人衆をもって北条氏綱との和睦        成立。
 6月 真里谷信隆、敗れて鎌倉へ去り、その後武蔵金沢に在宿。
    同月、安房・上総の諸侍、造営中の鎌倉鶴岡八幡宮の房州用材を差し止める。
 7月 上総峯上の鳥居木、佐貫八幡浦から渡海し、鎌倉由比浜へ陸揚げされる。
    北条氏綱、扇谷上杉朝定の河越城を攻落。朝定、松山城へ逃る。
1538年(天文7年)
 2月 北条氏網、上杉家臣大石氏の守備する葛西城を攻落し、さらに太田資正の岩付城近辺を放火す。
 6月 小弓公方義明の家臣逸見山城入道祥仙、国府台城近くの真間山弘法寺に所領安堵の下知状を
    与える。
 9月 義明、下総国府台へ出陣。
 10月 北条氏綱出陣し、西下総の松戸台・相模台で合戦となる(第1次国府台合戦)。
    小弓軍敗れ、足利義明・義純父子及び弟基頼以下数百人討死。里見義堯、退去する。
    義明遺児ほか近臣の佐々木・逸見・佐野氏らが房州へ落ち里見を頼る(後年、上総譜代家臣団と
    なる)。
    氏綱、上総へ進出し、原氏の小弓城を回復、また真里谷信隆も武田氏の惣領として復帰する。
1539年
 この年、古河公方足利晴氏、北条氏網の女(芳春院穀)を娶る。
1540年
 4月 北条氏綱、安房へ侵入、妙本寺へ制札を与える。
    里見内訌後、北条方の内房正木氏の金谷・保田・勝山・妙興寺を里見義堯が奪取したが、再度
    北条が奪う。
 11月 鎌倉鶴岡八幡宮造営成る。遷宮式。
1541年
 7月 北条氏網没(55歳)。
    北条氏綱 里見寄りの峰上城真里見大学入道全方を退け、伊丹氏を置く。
1542年
 12月 正木時忠、東上総の勝浦城へ進出、城下に年貢を賦課する。興津城は家臣の岡本大学を
        城主とする。
1544年
 4月 里見・正木、真里谷信秋・義信に応援して、1400-1500騎で後藤・北条方の中尾城を落とす。
 8月 大多喜の真里谷朝信、刈原にて敗れ自殺す。正木時茂、小田喜城へ進出する。
 9月 北条綱成、内安房へ侵入し、里見義堯と一戦、妙本寺へ禁制を与える。
    同月、北条氏、西上総の金谷・箕輸両郷に代官を置く。
1545年
 8月 里見義堯、安房の鶴谷八幡宮を造営。
 11月 安房の丸氏、石堂寺多宝塔を建立して、丸氏との結びつきを強くする。
1551年
 この頃、里見義堯、上総久留里へ移城。
 里見義弘、大戸城主となり千本木城も管理する。
 推定:佐貫城も里見方が確保したのか?
    この頃までに長南武田氏・上総土岐氏、里見へ従属?
1552年
 1月 北条氏康、関東管領上杉憲政を越後へ追う。
 2月 里見義堯、北条氏の拠点有吉城を攻める。
 10月 義堯、北条方の真里谷武田信応の有吉・久保田・椎津城を攻撃し落城させる。
 11月 真里谷武田信応自害する。
 12月 北条氏康、古河公方晴氏の後継者として北条の血縁の義氏を継がせる。
1553年
 4月 北条綱成、西上総・安房国境付近に攻め入り、妙本寺へ制札を与える。
 6月 房州逆乱起こり、妙本寺日我、金谷城へ逃れる。
    同月、北条氏康、妙本寺へ制札を出す。
 7月 金谷城兵火にかかり、日我、西安房の地を転々とする。
    この頃の北条勢力圏は、佐貫・百首・峰上・金谷城を確保。
 11月 北条綱成以下、玉縄衆の軍勢が久留里に対する向久留里(向郷)へ陣とり久留里城を攻める
    が落城せず。
1554年
 7月 北条氏、武蔵芝金曽木の船持中に法度を出し、船及び船方の家屋・屋敷の売買、船方の逃亡、
    諸役を課すことを禁じる。
1555年
 3月 北条綱成2000余騎で再び久留里城を攻めるが、応戦に出た正木氏に敗れる。
    北条氏に応じた西上総の峰上城主:吉原玄蕃助、東安房長狭へ攻め入る。
 10月 大多喜の正木時茂、千葉へ乱入、宿中放火する。10月改元。
 11月 足利義氏元服(葛西様)。
1556年
 9月 北条氏、久留里から敗退する。
 3月(10月?) 里見義弘・正木時忠・小糸城主:秋元氏・丸城:山川・川名氏ら、水軍をもって相模三浦
    を攻める。
1557年
 7月 里見義堯、諏訪神社を再興して丸氏との関係を強める。
1558年
 11月 館山の鶴谷八幡宮を修造して、安房支配を再確認する。
1559年
 4月 越後の長尾景虎上洛。
1560年
 3月 正木氏ほか関東諸将、長尾景虎へ太刀献上。
 5月 足利晴氏没。桶狭間の戦い(今川義元敗死)。
    同月、北条氏康、里見義堯の上総久留里城を攻めるため向久留里(向郷)に新地を取り立てる。
    正木時茂、越後長尾景虎の越山を要請する。
 9月 景虎、上野国へ進入し、厩橋城に入る。
 7月 北条氏、武蔵芝代官・百姓中へ、浦賀に定詰する船方役を銭で代納するように命じ、さらに         芝の船方6人に対して浦賀詰船方番銭を半分の250文に減らし、船方6人分1ケ月1貫500文(年間
    18貫文)を浦賀の愛洲・山本・近藤ら三人に渡すように命じる。
 10月 氏康、久留里城の攻囲を解いて武蔵河越城へ出陣、松山城に在城して景虎に備える。
    勝浦正木時忠の房州衆、下総小見川の富田台に陣をとり、近辺を攻める。
 12月 正木時忠、小見川相根塚に築城。これより永禄九年七月まで下総小見川城をとり、侵略す。
1561年
 1月 正木時茂、下総へ侵攻して原氏の臼井・生実両城を攻め取るが、千葉・原氏の反撃にあい敗退。
 2月 長尾景虎、関東管領上杉憲政を奉じ、関越軍を率いて厩橋城を発し、小田原へ進撃する。
 3月 関越軍、小田原城を攻囲する。里見義弘・正木時忠、相模三浦へ渡海して鎌倉へ入り、比企        ガ谷の妙本寺及び山ノ内の禅興寺に制札を出し、小田原へ参陣する。
 3月 正木時茂、鎌倉に入り、月行寺に禁制を出す。
 同月、長尾長虎、鶴岡八幡宮補前において、上杉憲政から関東管領職を譲り受け、上杉氏の名跡を
 継いで憲政の一字を得て「政虎」と改名する(のち輝虎・謙信)。
    義弘、政虎と対顔、申合す。
    内房正木氏(正木兵部大輔・同源七郎・同弥五郎)、北条から里見へ鞍替え。
 4月 正木時茂没する。
 6月 上杉政虎、古河城に足利藤氏・上杉憲政・近衛前久らを入れ、厩橋から越後へ帰国。
 7月 足利義氏の母・芳春院殿(北条氏網女)没する。義氏、関宿城から高城氏の小金(大谷口)城        へ移座。
 9月 北条氏、玉縄城主北条綱成配下の羽田代官・百姓・船持中並びに奉行綱成代に対し、羽田        の東海船3艘と船方1艘6人乗積18人をもって海上防備にあたることを命じる。
 11月 上杉政虎関東へ出陣して、里見義堯へ参陣を要請。
1562年
 1-2月 里見義堯、下総へ出陣し臼井を経て市川十里之内に陣取る。
 2月 足利藤氏・上杉憲政・近衛前久ら、古河城を退去する。憲政・前久は上杉輝虎と越後へ帰国
        し、藤氏は御一類(藤政.家国ら)とともに里見氏を頼る。
 4月 北条氏政、本田氏・興津氏らに命じて、里見氏家臣・網代大炊允の守備する葛西城を攻略さ
        せる。
 8月 北条氏、武蔵羽田浦を支配する玉縄衆行方与次郎及び羽田百姓中へ、海上防備のため当
         年・来年の船2艘、船方7人での走廻を命じ、諸役を免除する。
    北条氏康、三崎城の船手大将梶原吉右衛門(景宗、のち備前守か)に三浦郡小坪・同岩戸村
       に合わせて110貫950文の知行を与え、海上防備を命じる。
 10月 足利義氏の佐貫動座を阻止すべく、里見義弘、相模の三浦三崎を攻め、近辺放火したが大
       敗し、龍崎縫殿頭兄弟3人ほか20余人討死する。
    北条氏康・武田晴信(信玄)、太田資正の属城で城将上杉新蔵人憲勝の立て籠もる武蔵松山
    城を攻囲する。
 12月 上杉輝虎、関東へ出陣して上野国倉内に着碑、関東諸将に参陣を促す。
    松山救援のため里見氏の出陣を要請する。
    足利義氏、小金から上総佐貫城へ移る。
    この年、原氏、小弓城を奪還したらしい。
1563年
 1月 房州衆、下総国府台に陣取り、武蔵進出のための兵糧調達。国府台の合戦起こる。
    里見方の正木大炊介(平七信茂か)、北条方の遠山網景二箪水康景ら討死す。
    勝浦正木時忠・時通父子、里見氏から離反し、北条氏に通じる。
 2月 松山城陥落。上杉輝虎、古河域を回復して、足利藤氏を入れる。
    里見義堯、厩橋城で輝虎・太田資正らと参会する。
 9月 北条氏、古河城を攻めて藤氏を捕え、伊豆に幽閉する(永禄九年殺害)。
 12月 輝虎、越山して厩橋城に入り、里見義堯・義弘の出陣を要請。
    秋以降、北条方 岸和田城を中心に椎津・利根里・和田・子糸城などで里見と攻防戦をする。
    里見義弘軍、葛西・江戸方面を攻撃し、国府台城に帰城。
    太田康資、北条氏から離反し、里見方へ帰属する。
    同月、安房長狭郡の磯村上行寺出火。
    この年、土気酒井氏、里見氏へ鞍替え
1564年(永禄7年)
 1-2月 北条氏政・氏照の軍勢、国府台城を囲む。北条氏、国分郷並びに葛飾八幡宮別当坊・船
     橋大神宮・申山法華経寺に制札を与える。
     国府台合戦起こる。
     里見・太田軍敗れ、里見弘継(次)・正木平六時成ら、千余人討死。
     同じ頃、上総で諸城攻防戦。池和田合戦。池和田城・利根里城・榎本城陥落、城将多賀氏
     討死。
      原氏、臼井城奪還。
 6月 秋元義久の小糸城陥落、義久落命。
 7月 北条氏康・太田氏資(資正の嫡子)により、太田資正は岩付城を追われる(81年大多喜で没)。
 8月 足利義氏、佐貫から鎌倉へ帰座、鶴岡八幡宮へ願文を奉ずる。
1565年
 2月 北条氏政及び原胤貞の臼井衆、里見方の土気城酒井胤治を攻める。胤治、上杉輝虎の越山
    を要請する。
 11月 上杉輝虎、里見氏の出陣を要請。里見義弘、領内に棟別銭を課す。
    この頃、正木時忠の兵、下総三崎庄横根・三川・野中・須賀中などの郷村に侵入。
1566年
 2月 上杉輝虎・小田氏治の常陸小田城を落とす。
 3月 輝虎の軍勢、下総小金・船橋を経て、原氏の臼井城を囲む。
    北条氏から松田氏の援軍、臼井救援に参じ、輝虎退散。
 4月 北条氏、武蔵金沢の鍛冶に対して、「伊東新左衛門御預ケ船」の修復のため五日間「伊東所」
    へ行って作業するように命じる。
 秋  北条氏、西上総三船山に城砦の築造を開始する。
    里見義弘、これを阻止するため、佐貫の加藤伊賀守を大将とする水軍をもって兵站を担う三浦 
    を攻める。
    この年、足利藤氏没。
1567年
 2月 三崎城主北条氏規、上総鋳物師野中修理亮に対して、金沢・神奈川の津における鋳物師商 
    売を認め、船が難破して他の津へ漂着した場合に氏規の印判をもって積荷等を保障すること 
    を約す。

 3月 北条氏、三浦郡田津の船持・助右衛門(永嶋氏)の葛網漁に使用する葛網船に対して、諸役
    を免除する。
 7月 北条氏、軍船修造のため、金沢・釜利谷・日野又五郎・青木之弥四郎らの鍛冶並びに六浦の 
    番匠小三郎を、伝馬を仕立て浦賀へ召し出して作業させる。
 8月 北条綱成の率いる北条水軍、三浦の菊名浦で里見水軍と戦う。
    綱成の大船破損し、上宮田村の松原新左衛門これを救け、のち北条氏から褒美として田地を 
   与えられる。
    北条氏政・氏照及び太田氏資の軍勢、西上総の浦辺へ渡海し、氏照軍は真里谷から小櫃川
    沿いに久留里城へ迫り、氏政・太田軍は三船山麓に陣した。同下旬、合戦となり里見軍が勝
    利し、北条方敗走、太田氏資以下その家臣恒岡越後守・内田・賀藤ら五二人討死する(三船 
    山合戦)。
     里見義弘、西上総を回復し、佐貫城へ移る。
1568年
 8月 北条氏、羽田浦を支配する玉縄衆行方左馬允をして、浦百姓らの羽田浦磯辺での漁猟を認 
    めるとともに、もし沖へ船を漕ぎ出して他郷へ行くことがあれば罪科に処すとする。
 12月 武田信玄、駿河へ侵入。
1569年
 2月 里見義弘・下総市川松戸へ侵攻して、弘法寺・中山法華経寺へ制札を与える。
    義弘の軍勢、臼井筋の郷村に放火し・上総椎津城に帰陣する。
 5月 越相一和成立。
 6月 北条水軍の山本左衛門太郎(正直)、金沢船3艘を奪った房州海賊を追撃して、上総富津浦 
    へ追い、この功により氏康・氏規の感状を得る。
    足利義氏古河城帰座。
 8月 義弘、武田信玄と結ぶ。
1570年
 4月改元。
 8月 里見氏・下総千葉寺下から野田・土気村で原氏と合戦、小西の原能登守らを討取る。
1571年
 春  里見氏、岡本左京亮頼元らの水軍に三崎表を攻めさせる。 
 6月 里見氏・両総西筋の窪山に築城。
 8月 北条氏政、千葉胤富の要請に応えて生実近辺へ派兵する。
    三好孫太郎(堀内康親)、金沢浦へ侵入した房州海賊2艘に応戦し、 1艘19人を討ち取り、玉
    縄城主北条常陸介康成より賞さる。
 9月 氏政・美城下浜村の本行寺一禁制を与える。
    同月、岡本城主:里見義頼家臣の安房岡本番衆安田与太郎、十左衛門に討殺され。十左衛 
    門・延命寺へ山林。
 10月 北条氏康没(57歳)。里見義弘、生実(小弓)周辺を占領する。
1572年
 2月 小田喜正木氏、西下総一進出し、船橋大神宮へ禁制を出す。里見義弘、安房鶴谷八幡宮を
     造営。
    この年夏、岡本築城成る。
1573年
 2月 北条氏規、三浦郡田津の船持永嶋氏(助右衛門、出雲守・左京之亮)の葛網船を菅谷織部 
    丞の水軍へ編入させ、大手陣へ出陣させる。
 4月 武田信玄没(五三歳)。7月改元。
    この年、里見義康生まれる。
1574年
 1月 北条氏政・氏照・簗氏の関宿城を攻囲する。
 6月 里見義堯没する(68歳)。その子義弘、久留里城へ移る。
 11月 簗田氏、関宿城を明け渡し、水海城へ退く。
1575年
 3月 北条氏、船手大将梶原吉右衛門へ「4艘之早船、乗組衆40人」の扶持240貫文を与える。
 8月 北条氏政の軍勢、両総への進攻を開始し、下総府中から佐倉領内に入る。
    同月氏政、上総一宮城正木藤太郎を救援するため、同城へ兵根を入れさせる。
    北条氏の家臣松田憲秀、藻原の妙光寺へ禁制を出す。
 10月 北条氏規、三崎の船手太将山本家次・正次父子に命じて、西上総の諸郷村の半手収納を
     天神山湊周辺に地盤をもつ野中氏に担当させる。
 11月 勝浦の正木時通没する。
 12月 里見義継(義頼の前名)、武蔵金沢の廻船商人山口越後守へ海中往行を保証した朱印状を
     与える。
1576年
 3月 北条氏規、船手大将山本正次に命じて、西上総の諸郷村の半手収納を野中氏一人に任せて
    いたのを改め、野中・小林・杉山・蒔田ら六人の者に分担させる。
 夏  里見義弘、佐貫在城の三浦下等成良・同右馬助雇父子に命じて、水軍に三崎表を攻めさせ 
    る。北条水軍梶原氏と戦う。
 8月 勝浦の正木時忠没する。頼忠が継ぎ、?年に里見と和平する。
    この年、北条軍、上総へ侵入。土気城の酒井康治、北条氏政に屈伏する。
    氏政、西上総を攻め、原氏・高城氏らに上総有木城・椎津城・窪田城の在番を命じる。
1577年(天正5年)
 1月 大多喜の正木憲時、上杉家臣北条高広・同景広へ書状を送り、謙信(輝虎)の越山を要請。
 2月 里見義弘、上杉家臣直江景綱を通して謙信の越山を請う。
 4月 北条氏政、西上総へ渡海して三船山に陣を取る。
    里見義弘、これに対抗して海賊衆を三浦へ派遣し、北条水軍と合戦。山本正直(家次の子)討
    死する。
 9月 北条氏直の軍勢、東上総の本納・茂原方面へ進出。松田憲秀、藻原妙光寺へ虎朱印の禁 
    制を下す。
    山本正次の水軍、西上総へ攻め寄せ、佐貫前の海上で房州海賊衆と船軍を行ない、これを破
    り、敵の早船三艘を奪い取る。里見方の久留里衆・愛河(相河)氏討死。
 11月 北条氏直、上総へ侵攻して里見方の数か城を攻略。義弘、和睦を望む。
    房相の和融成立。岡本城の里見義頼の正室に、北条氏政の女(於鶴・龍寿院殿)を迎える。
 12月 三崎城主北条氏規、佐貫前海戦の功により山本正次へ感状を与える。
1578年
 3月 上杉謙信没(49歳)。
 5月 里見義弘没(54歳または49歳とも)。
    岡本城の里見義頼と佐貫城の里見梅王丸の家督相続争い起こる。
 11月 北条氏、上総長南城主武田豊信支配下の姉崎湊に繋留の船について、海上での横合非分
    を禁じる。
1579年
 3月 里見義頼の正室(於鶴・龍寿院殿)没する。
 9月 里見義頼、武州金沢の山口越後守に分国中への廻船入津、諸役免除の朱印状を与える。
1580年
 4月 里見義頼、上総小櫃川上流域へ兵を進め、久留里・千本・亀山の諸城を攻略する。
    佐貫開城し、梅王丸出家。
 7月 義頼、正木頼忠の軍勢をもって小田喜正木憲時の支配する安房東部・東上総を攻める。
    憲時、敗れて小田喜城に退く。
    北条氏政、船手大将梶原傭前守に対して、新大船一艘の人衆を仕立てるための費用として三
    浦郡栗浜(久里浜)に150貫文の知行を与える。
 11月 北条氏、梶原備前守に「新大船一艘乗組之間」として栗浜郷の不入を認める。
1581年
 6月 里見義頼、下総布川の商人新井兵衛三郎に対し、当口(安房方面)への商売の船一艘の来 
   航を認める。
 7月 上総市原庄八幡郷に守護不入の新市場が立てられ、郷中商人らの諸役免除される。
 9月 小田喜城の正木憲時、家臣佐々木氏に殺害される。里見義頼、大多喜へ打ち入る。
 11月 義頼、上総百首城主正木淡路守に東上総一宮庄内虎見郷を与える。
1582年
 4-12月頃 里見義頼、上総佐貫移城。
 12月 里見氏、安房吉浜代官・藤平右馬允光徳、取持衆猟島(龍島)代官・宇部右馬允弘茂らに 
     吉浜村・妙本寺周辺の支配にあたらせる。
    古河公方足利義氏没する(42歳)。
1583年
 2月 上総小田喜の代官正木宮内大輔、小目代君塚兵庫助。
1585年
 12月 里見義康、鶴谷八幡宮神前で元服。
1586年
 10月 里見義頼没する(32歳)。義康継ぐ。11月 妙本寺日我没する。
1588年
 7月 秀吉の刀狩令。
 9月 正木大膳亮、土岐頼春の上総万喜城を攻める。
 11月 里見義康、秀吉に太刀一腰・黄金十両を献じる。  
1589年
 6月 里見義康、土岐氏の万喜領へ侵攻、発坂峠で敗れる。
 10月 義康、百首城の正木淡路守に百首城下湊へ廻船を入航させて検査するように命じる。
 11月 豊臣秀吉、北条氏直に宣戦布告。
1590年
 1月 正木大膳亮、土岐氏の万喜城を攻める。
 3月 秀吉、小田原へ出陣。
 4月 里見義康、相模三浦へ出陣し、最宝寺に制札を出す。野比・長沢両村焼失。
    同月、里見氏の軍兵、西下総船橋郷及び北東上総船橋郷及び北東上総富田方面へ進出す
     る。
 5月 里見氏の領国上総没収が伝えられる。
    最宝寺及び門前に、秀吉朱印の禁制が出される。
 5-7月 下総・上総の諸城、開城される。
 7月 北条氏直降伏し、小田原開城。
 8月 徳川家康、江戸城に入る。
 9月 秀吉の家臣増田長盛、安房国に入り、検地を実施。
 11月 義康上洛。
    小弓公方足利義明の孫国朝(頼淳の子)と古河公方足利義氏の女氏姫との婚姻による喜連川    家成立。
1591年
 3月 里見義康、侍従.安房守に任ぜられ、従四位下に叙せらる。義康「安房侍従」と称さる。
 6月 義康、安房へ帰国。
 7月 義康、本拠地を館山城に移す。
 7-12月 安房国内再編のため、新たな知行充行状及び寺社領安堵・寄進状を発給する。
1600年(慶長5年)
 9月 関ヶ原の合戦。里見義康、会津上杉攻めのため下野宇都宮へ出陣し、その功により常陸鹿 
    島3万石を加増される。
1601年
 4月 里見義康、館山城下新井町の商人岩崎・石井・松本ら国仲商人に対し、法度条々を発布する。
1603年
 11月 里見義康没する(31歳)。嫡子梅鶴丸、10歳で家督を継ぐ。
1606年
 8月 里見梅鶴丸、館山城下新井町・楠見・長須賀町・北条町の岩崎氏以下の商人中へ、法度条
     々を出す。
 11月 里見梅鶴丸、将軍徳川秀忠の御前で元服し、将軍の名の一字を拝領して忠義と名乗る。忠
    義、従四位下・安房守・侍従に任ぜらる。 
1610年(慶長15年)
 7月 里見忠義、岩崎与次右衛門を新井町の名主に任じ、諸役免除する。
1612年
 11月 里見忠義、安房国における諸色売買の公定価格を定める。
1614年
 里見忠義、国替を命ぜられ、伯耆国倉吉四千石に移封となる。館山城破却さる。

                        
時は慶長8年《1603》8月16日、開基里見義康公の命によって開創される。
当初は今の場所にではなく、北側の山の中腹あたりに建てられていたようである。
住職も不在で、ただ一寺という形だけがあったと云われている。
本寺は、里見氏歴代の菩提寺、曹洞宗 延命寺(三芳村)である。
   ご本尊は、地蔵菩薩。
   ご開山は、斧山良拙大和尚。
     
やがて、十代里見忠義の時代になると慶長18年7月27日にあらためて住職を
定め寺領が寄進される。古文書から推定するに、慶長11年にはすでに十石の
寺領が寄進されている。(川名登編 里見家分限帳集成)
ちなみに、本寺延命寺は、二百十七石九斗六升だった。
 【寄進状(黒印状)】   
   智恩寺無主(無住:住職不在)になることが懸念され、本寺(延命寺)の懇願を
   聞き入れ、里見忠義公は書状を贈る。
    内容)
     「智恩寺に住職が居なかったので、住職をおきたいと延命寺より話があっ
     た。承知したので、寺で使うすべてのものと寺領(石高)とを寄付する。
     これからは、寺が発展するように心がけ、また、学問にも励み一生懸命
     努力しなさい。
          慶長十八年七月二七日 里見忠義より 良拙和尚へ」

安永4年《1775》に本堂を再建、しかし大正12年《1923》9月1日の関東大震災に
よって鐘楼堂とともに本堂が倒壊してしまった。
時至り、昭和元年智恩寺15世片桐観禅大和尚によって再興され現在に至る。
智恩寺史へ