・・・・八分。

人間いざというときに備えて80%の力で日常過ごすことが賢明な生き方だと
どなたかに聞いたことがある。
最初から100%だしてしまえばいざの時に朽ちてしまうからだ。

過ちは正さなければならない。しかし、相手の気持ちを理由に自己主張するのは
自我のおしつけであり、思いやりにかける。
その一つに「腹八分目」がある。
 奥様の美形はいいが、体型が最近こと思わしくない。
 ご主人は知り合った頃を思い出してご飯を食べたのにお饅頭、お菓子と次々と
 口に運ぶ妻を見て”お前はよく食べるねぇ~だから太るんだ”
 売り言葉に買い言葉で、すかさず奥様は”貴方は言いたいことを云ってスッキリ
 した思っているんでしょうけど、スッキリすればするほど私は腹が立つんですよ”
 ”その腹が立った分、お饅頭、お菓子を一杯詰めて腹の虫をおさめているんです!”
 ご主人我に返って”すまんね、お前を太らせてしまって・・”
私たちは時として過ちを正したり、注意してり、怒らなければならない時もある。
でもその時は自分の思いを全部だすのではなく「腹八分目」にして、残りの二分は
『堪忍(かんにん)』することが大事である。
二分の堪忍の無さが悲劇を生むことになる。

次に「村八分」
 十分(出産、成人、結婚、葬式、法事、病気、火事、水害、旅立ち、普請)のうち、
 断絶するのは八分。 十分でなく八分であるということは、八分は断絶するが、
 二分の交際は残すという意味である。
 その二分は、葬式と火事である。
 絶縁はしても、葬式:すなわち、その家族たちの中の誰かが死んだときは、村中の
 人たちは葬式を手伝って悲しみを共にする。
 火事に遭った時も、みんなで手を貸して手伝う。 それ以外は手を貸さないという
 ことなのである。
 つまり、絶縁しても悲しい出来事だけは分かち合おうというのが「村八分」なのである。
 これは日本人の義理人情の発想とも深い関係があろうが、こんな心優しい懲罰風習
 は、世界に類を見ないといえる。
 結局、人間は助け合っていかないと生きてはいけないという社会共同意識が、最低の
 基準としてあったが・・・・・・
 いまのご時世どうだろうか。 決して仲間外れを村八分とは呼ばない。

両者とも思いやるこころ、優しいこころ、助け合いの精神を教えている。
年も半分、6月を迎え敢えてこの「二分」に拘ってしまった。